歌:原田悠里
作詞:室町京之介
作曲:坂元政則
私は鳥浜とめと申します。
鹿児島県の知覧(ちらん)という小さな町で、小さな旅館を営んでおりましたが、太平洋戦争が勃発した
直後、昭和十六年十二月二十四日、飛行基地が発足いたしました。静かだった知覧の町も飛行機の爆音
に明けくれるようになりました。飛行兵といっても十五、六歳から二十二、三歳の少年達が、日夜急
仕込みで飛行機を操縦する猛訓練に励んでいたのでございます。
私の旅館も富屋という軍の指定食堂になり、毎週日曜日には若い隊員さん達の憩いの場所となりました。
私を故郷のお母さんの様に慕ってくれて、無邪気に甘えてくれたり、相談してくれたり、私も母親代わり
をと…一生懸命尽くしました。
その頃、戦局は急速に敗退の一途をたどっておりました。昭和二十年三月二十五日、沖縄の一角に連合軍
の上陸が始まり、最悪の事態になってまいりました。この戦局を挽回する手段として、世界戦史に類を
みない一機で巨艦を撃沈する体当たり攻撃、特攻隊が編成され、この知覧の基地から沖縄の空に向かって
飛び立っていったのです
そして誰も彼もが叫ぶのです…。「知覧のお母さん、僕たちは立派に花と散ってみせますよ…。」
それが少年飛行兵なのです。あの子達は汚れを知らず、ただ、お国のために生まれた時のままの姿で、
清く雄々しく花と散っていったのです…。
基地の方角から誰が吹くのか、泣いている様な尺八が聞こえる時は、何人か、いいえ何十人かが出撃する
時でございました。
♪花の蕾が 見た夢は
七度び空を 血に染めて
死んで見せます お母さん
ああ お母さん
会うは九段の 花のかげ
ある日曜日の夜の食事がすんだあと、新潟から入隊した宮川君が「富屋のお母さん、いろいろお世話に
なりましたが、明日の夜明け、出撃せよとの命令です。せめて最後に、故郷の母に手紙と軍から頂いた
お金を送りました。
母ひとり、子ひとりに、甘えて育てて頂いた十八年、ただの一度も孝行の真似事もできなかったのが残念
です…。でも三郎は沖縄の空から立派に玉砕する覚悟です。
やだなぁ、泣いたりして…そうだ、柱に僕の身長の高さに傷をつけておきますね。ねぇ、富屋のお母さん、
僕は死んでも必ず会いに戻ってきます…。蛍になって…だって、あの世の道は暗いんでしょう…。」
「翌朝早く、尺八の音が聞こえてきました。すると、飛行機の爆音が…。
あぁ、あの子が基地を飛び立って行く。私は一生懸命祈り続けました…。一時間、二時間、やがて知らせ
が届きました。あの子は敵の戦闘機にやられて、火だるまになりながらも、敵艦を目がけて、錐もみの状態
で、海の底に消えたそうでございます。どんなに悔しかったことでしょうか…。」
♪やっぱりあの子は 偉かった
それでも最後の 最後まで
戦い続けた 姿こそ
三千年来 受け継いだ
血の流れです 日本の
母の育てた 誇りです
欲を言ったら 飛行機が
そのまま敵の 甲板に
当たっていたら 万歳と
笑って死んで 行けたろに
せめてあの子の回向(えこう)をと、ロウソクを灯しお線香を上げて祈っていると、いつのまにか陽はとっぷりと
昏れていた。その時でした…。長女の美也子が狂ったように…。
「お母さん、大変っ! 庭を見て!宮川君が会いに来たのよ…。蛍になって…。」
「ええっ? ほ、蛍になって…。まさかお前、そんなことが…。」 そう言いながら庭を見ると、尾を引く
ような淡い光が…。「あぁ、やっぱりあの子だっ!」
♪会いに来たのに 違いない
蛍が見えた おばさんと
呼んでいる様に 泣く様に
ああ 泣く様に
草の葉末の 露の上
あれから、もう何十年経ったでしょう。いまでも、はっきりと覚えています。沖縄の空へ飛んで行った
可愛い少年飛行兵は千三十六人もいたのです。その尊い魂を祀って基地の跡に、知覧観音が出来ました。
♪檜林や 杉林
三角兵舎の 朝夕に
母を夢見る 年頃で
儚く空に 散華(さんげ)した
忘れられない 面影が
昨日のように 蘇る
何で泣かずに いられよう
偉いぞ空の 少年と
その勲(いさお)しを たたえつつ
婆の涙の 涸れるまで
祈り続けて 参ります
蓮の花咲く 果てまでも
MORECHAU feat. edhiii boi, Janet真夢叶(ぺろぺろきゃんでー), JIMMY(PSYCHIC FEVER)
ダル着にサンダルでも盛れちゃうソロでもチームでもハ...
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